決別
時は天正十年(1582)、戦国時代の大事件「本能寺の変」が発生、主君織田信長が家臣明智光秀の急襲を受け、信長が自害するという事態に至った。
この報は直ちに日本国中にもたらされたが、丹後国の宮津城で事態を知ったある武将は窮地に追い込まれていた。
名を、細川藤孝(ほそかわふじたか)という。
藤孝にとって本能寺の変は、一幕臣から丹後国主にまで取り立ててくれた主君織田信長が、あろう事か丹波・丹後攻略において共に助け合った盟友であり、嫡男忠興(ただおき)の内室
・玉(たま)の父でもある明智光秀に討たれた大事件であったのである。
藤孝は嫡男忠興(ただおき)に家督を譲り、自らは『大恩ある信長公の御霊を弔う』
為に剃髪して名を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と改めた。家督を譲られ、以後の決定を任された忠興も父の行動に感涙し、剃髪して信長に哀悼の意を表した。
この報に驚いたのが明智光秀であった。光秀は、盟友であり姻戚でもある細川親子は必ず自分に味方してくれるものと信じていたからである。光秀は細川親子の行動に一度は憤慨したものの、気を取り直して再三再四決起を呼びかけた。しかし細川親子は断じて動こうとはせず、逆に光秀の居城であった丹波福知山城に兵を差し向けて反光秀の立場を鮮明にした。
光秀と藤孝の二人は、足利義昭を奉じたときより苦楽を共にした間柄であり、
織田家の家臣団の一員となってからも丹波・丹後の攻略で共闘するなど、正に無二の親友であった。光秀にとって細川親子が味方してくれなかったことは大きな誤算であったであろうし、藤孝にとっては正に断腸の想いだったであろう。しかしながらこの事は細川氏にとって、後に大きな悲劇を生む事になるのである。
恵
父に倣って剃髪した細川忠興には、ひとつ心配事があった。
内室・玉をどうするかである。
玉は主君信長公を討った明智光秀の娘である。
謀反を企てた者の血は絶やさなければならない・・・・・・それが戦国の世の慣わしであったが、忠興はどうしても玉を手に掛けることを出来ずにいた。忠興は玉を離縁せず、丹後国与謝野郡味土野(現・京丹後市弥栄町)へ蟄居させる事で、何とか存命させようとした。忠興と玉は織田信長の媒酌によって婚姻の契りを結んだ間柄であり、その仲睦まじさはつとに有名であった。忠興にとって玉はまさに
宝玉(宝物)だったのである。
味土野へ幽閉された玉は、一族に降りかかった不幸を嘆き、夫に会えぬ寂しさと戦乱の世に無情を感じて日々を過ごしていた。そんな玉に救いの手を差し伸べたのは、侍女から聞いたキリスト教の話であった。
後に玉はキリスト教の洗礼を受け、「細川ガラシヤ」を名乗るが、ガラシヤとはグローリア=恵みを意味する。のちの彼女の人生を思うとき、余りにも皮肉なネームであった。
本能寺の変以後一貫して羽柴秀吉に忠誠を誓い、数々の武功を立てた忠興が、天下人となった秀吉より内室を城へ呼び戻す許しを得たのは、玉の蟄居から二年数ヶ月後の事であった。
雅
細川藤孝を語るとき、忘れてはならない事がある。
藤孝は、
・剣術を塚原ト伝
・弓術を波々伯部貞弘
・馬術を武田信富
から伝授された武将であると同時に、歌道、連歌、茶道、料理、陶芸、音曲、刀剣鑑定など、ありとあらゆる芸能・学問に通じた当代随一の文化人としての顔も持っていた。
本能寺の変以後、家督を嫡男忠興に譲り、名を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と改名した藤孝は、丹後国の政治の中心であった宮津城を離れ、もっぱら加佐郡(現・京都府舞鶴市)の田辺城で隠居生活を送っていた。
丁度その頃、加佐郡には京都の公卿・中院通勝(なかのいんみちかつ)が幽閉されていた(幽斎と通勝は和歌の師弟関係にある)ので、幽斎は度々通勝を見舞ったと伝えられている。
舞鶴市字吉田の瑠璃寺はしだれ桜の名所として知られているが、このしだれ桜は通勝を慰めるために、神道宗家である吉田家とも親交のあった幽斎が、京都の吉田山より移植させたもの(舞鶴市文化財保護委員会会長・高橋卓郎氏の説)とする話や、吉田の近くにある小島は、かつて幽斎と通勝が歌を興じた場所であるとの説など、幽斎の文人としてのエピソードは事欠かない。
舞鶴湾に浮かぶその小島は、古来より「トットリ島」と呼ばれていたが、現在では「年取島」の字を当てている。この由来は年の大晦日から二人が歌を興じていたところ、何時のまにやら年が明けてしまい、そのとき幽斎が詠んだとされる歌に起因する。
藻塩草かき集めたる跡絶へて ただ年取の名のみのこれり
(小島にて幽斎が詠んだとされる歌)
謀略
本能寺の変以後、細川氏は一貫して羽柴秀吉に忠節を尽くした。
羽柴秀吉が豊臣秀吉となり、天下統一の階段を登るにつけ、細川氏頭首である細川忠興の位階・官職も昇進していった。天正十三年には「羽柴」の呼号が許され、従四位下・侍従から左近衛少将に昇進している。秀吉の文書には度々羽柴丹後少将の文字が見受けられるが、これは忠興の事である。
しかしながら時の権力者の興亡盛衰ただならぬ世情は、決して細川氏に我が世の春を謳歌させる事はなかった。
文禄四年、秀吉が甥の豊臣秀次を謀反の罪で自害させる事件が発生したが、この時秀吉は忠興に対しても嫌疑の目を向けた。忠興は秀次から黄金百枚を与えられていたからである。
この時はのちの五奉行のひとりとなる前田玄以を通じての釈明と、徳川家康の援助による返金で何とか事なきを得た。
秀吉没後の慶長五年、今度は恩人である家康と細川氏にとっての姻戚関係にある前田利家(忠興の嫡男忠隆の内室は前田利家の七女・千世であった)が鋭く対立したため、忠興は苦心して二人を和睦させようと試みたが、逆に利家の嫡子利長が忠興と結託して家康の暗殺を企てているとの風聞が立ち、家康の逆鱗に触れるという事態に陥った。
この時忠興は利長が無実である事をつぶさに弁明し、自らも身の証しを立てる為、三男忠利を人質として江戸へ送るなどして家康の信頼を回復しようと必死になった結果、何とか流血の惨事を免れている。
『綿考輯録』なる書物によれば、この二つの事件の黒幕は石田三成であったと断定している(ちなみに筆者は本当の黒幕は徳川家康ではないかと思っているが・・・・)が、忠興は父親譲りの鋭い政治感覚を以て対処し、いずれも事なきを得ている。
実際に忠興がどのように考えていたかは定かではないが、上記二つの事件を契機に、細川家は
次第に豊臣家(石田三成)とは疎遠になり、徳川家の信頼を得る事に心血を注ぐ事になるのである。
出陣
慶長三年八月に豊臣秀吉が没した後、遺児豊臣秀頼が成人する迄の間の豊臣政権は、徳川家康・前田利家ら五大老と、石田三成ら五奉行によって政務を代行する事となっていたが、翌四年になるとこの政権内部の反目が表面化しはじめた。
家康と並ぶ声望を持った前田利家が没すると、家康は秀吉の居城であった伏見城に入り政務を独占、さらに他の大老が帰国したのを契機に秀頼の居城である大坂城へ入り五大老の権限を手中に収めた。
時代の趨勢は豊臣から徳川へ移ろうとしていた。
そんな中、会津に帰国した大老上杉景勝は城郭を修築し始めた。これが戦いの準備ではないかと疑念を抱いた家康は、景勝に上洛して弁明する事を求めたが拒否された為、諸大名に会津征伐への出動を指令し、自らも軍の指揮を執る為関東に下った。
この指令に従った大名は、細川忠興・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・浅野幸長・池田輝政・藤堂高虎・山内一豊らである。
慶長五年六月二十七日、嫡子忠隆の先発隊に続いて丹後宮津城を出発した忠興は、途中田辺城の父幽斎に暇乞いの供応を済ませ、総勢五千百名からなる大軍は若狭から近江を抜けて中山道を目指した。
忠興にとって今回の出陣は、「家康の信頼を得る絶好の機会」であり、細川家の総力を結集した出陣だったのである。
しかしこの時の家康による出動指令を「絶好の機会」と狂喜している男がもうひとりいた。
五奉行のひとり、石田三成である。
哀
慶長五年夏、徳川家康が会津征伐の為関東に下った頃合いを見計らって、五奉行のひとり石田三成は、大老毛利輝元を大坂城に迎え入れた。家康誅伐軍の総大将に担ぎ上げたのである。
豊臣方(以後西軍)は、『内府ちがいの条々』と呼ばれる檄文を発し、何故家康が誅伐されなければならないかを明確にした上で、毛利輝元・宇喜多秀家の二大老名で
『秀頼様に馳走あるべき』という西軍に加勢を求める文書を諸侯に配布した。
家康誅伐の為に決起した西軍が先ず行った事、それは大坂に留め置かれていた妻子を人質として拘束する事であった。真っ先に狙われたのが、細川家の大坂屋敷であった。
そこには日頃三成と折り合いの悪かった忠興の内室、細川ガラシヤが居たからである。
忠興は万一に備えて、稲富流砲術の創始者である稲富一夢らを警護役として配置していたが、西軍に攻め入られた際に多くの者は遁走してしまった。もはやガラシヤには西軍の人質となるか、拒んで自刃するかの二つの選択肢しか残されていなかったが、キリシタンであるガラシヤに自刃は許されなかった。
ガラシヤは屋敷に火を放ち、人質となるのを拒んで家臣に命じて自らの首をはねさせた。首はキリシタンの同志によって堺に運ばれたという。
ガラシヤの生涯とは一体何だったのであろうか?
細川忠興に嫁いだものの、忠興との甘い生活は父の謀反によって一変し、恋しい夫とはすれ違いの日々・・・・・・彼女はキリスト教の洗礼を受け、ガラシヤ(恵みの意)を名乗ったが、果たして愛に恵まれた人生だったのだろうか?
人々に慈愛の心で接していたガラシヤは、自らは愛に恵まれる事なく、武将の妻として天に召された。享年三十八歳の若さであった。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
(細川ガラシヤ 辞世の句)
義
大坂でガラシヤを人質とすることに失敗した石田三成は激怒した。
ガラシヤが死んでしまったことで作戦の第一段階は頓挫、西軍諸侯は浮き足立ってしまった。三成はかねてより折り合いの悪かった細川家に、またしても煮え湯を飲まされたのである。怒りの収まらない三成は畿内の武将に、「忠興には大勢の兄弟が居るにも関わらず、誰ひとりとして豊臣秀頼様の警護をせず関東へ出兵している。その様な不忠者が新知を受けた(会津征伐に先立ち、忠興は家康より豊後に六万石を加増されている)ことは不届である。」として、丹後へ
の出陣を命じた。軍事戦略上何の意味も持たない丹後の攻略は、三成の私怨以外の何物でもなかった。
ガラシヤ自刃の悲報は、すぐさま丹後で留守を預かっていた細川幽斎の元に届けられていたが、三成の次の一手もたちどころに幽斎の知るところとなった。三刀屋考和なる者が馳せ参じ、『石田三成、諸侯に命じて丹後を攻略せんと謀議中』と知らせてきたからである。
三刀屋考和の父久扶は、抜群の軍功をたてながらも主家との折り合いが悪く、一時洛外吉田山で隠棲生活を送っていたが、そのとき神道宗家である吉田家を通じて幽斎との交友関係が結ばれていた。かつての主家から丹後攻略の先陣を切るよう進められた子息考和は、幽斎との交誼を重んじ、『この一戦に人生の浮沈を賭ける』として、配下の者二十名を引き連れて田辺に入城してきたのである。
三刀屋考和の通報によって危機を知った幽斎は、直ちに丹後国内の宮津・久美・嶺山・中山・河守の各城を焼き払わせ、自らが隠居していた田辺城に残存兵力を集結させたが、その数は僅かに五十余名であり、急を聞いて合力しようと駆けつけた領民僧兵を合わせても五百名に満たなかった。(なお、この時士卒の妻子はすべて避難させている)
これに対して寄せ手は丹波国福知山城主小野木公郷を総大将に一万五千からの大軍であり、軍勢は
立身出世を夢見て勝ち馬に乗ろうとする者たちによって、更に膨れあがろうとしていた。
迫り来る危機の中で幽斎は関東へ進軍中の忠興に書簡を送っている。
「大坂にて内室は人質となる事を断固拒んでいる。丹後にも大坂方が攻めてきているが、城の守りは益々強固であるので安堵せよ。」
忠興は父の気遣いに涙した。丹後に兵力がない事は大軍を率いている自分が一番良く知っていたからである。(なお、この時忠興はまだガラシヤ自刃を知らされていない)
慶長五年七月二十一日、日本合戦史上守備に最も不利な籠城戦は、こうして幕を開けた。
秘策
一万五千人からの軍勢に対して味方は僅かに五百余名、しかもその大半は戦闘未経験者であった。絶体絶命の危機に直面した細川幽斎は、無駄な合戦による消耗を避け、徹底した籠城戦に打って出た。
「田辺」の地は、かつて「田造」と記した。
伝説によれば太古の昔、丹後の最高神である豊受大神が当地に赴き、その豊富な水を利用して田圃を整備し、民に稲作を伝授した故事が「田造」の地名の由来であるという。
細川幽斎はこの地に軍事的優位性を見出し、守護大名一色氏の居城であった平城を占拠するや、周囲の河川を改修して水城を創り上げた。それが田辺城である。田辺城の西側と東側には川が流れており、北側は海に面していた。そのため寄せ手の総大将であった小野木公郷は、城をぐるりと取り囲み、海には軍船を浮かべて完全に包囲すると、防備の薄い南側から攻め入って一気に勝敗を決しようとしたが、実は南側こそ田辺城の防備が最も強固な側面だった
。

武功を焦った寄せ手は、我先にと南側から攻め入ったが、突入してきた騎馬隊は次々と湿地帯に脚を取られ、身動きがとれなくなってしまった。右往左往している寄せ手に対して、それまで恐ろしいほど沈黙を守っていた田辺城から一斉に火縄銃が撃ちかけられた。
幽斎は大量の火縄銃と弾薬を田辺城に備蓄しており、寄せ手が城の南側で罠に引っかかるのを息を潜めて待っていたのである。
寄せ手は堪らず川の対岸に垣を築いて火縄銃を射かけてきた。双方火縄銃の撃ち合いとなったが、此処で寄せ手は通常の鉛玉を撃ってきたのに対し、数で劣る田辺城からは恐らく日本合戦史上初めて使われたであろう癇癪玉(かんしゃくだま=炸裂弾)が撃ち返された。癇癪玉は寄せ手の垣をことごとく吹き飛ばしたばかりか爆音によって寄せ手に恐怖心を植え付けて戦意を削いでしまった。総大将小野木公郷は圧倒的数的優位にありながら田辺城を攻めあぐねていた。
丹後の最高神である豊受大神は、尽く細川幽斎に味方している様であった。
一方細川家頭首忠興率いる細川軍は、慶長五年七月二十四日、各大名の軍と合流し、石田三成蜂起の報を受けた徳川家康は、諸大名に対して去就を各人に任せる旨告げたが、諸大名はいずれも家康に同心して三成を討伐する事を決した。忠興も家康に同心した。大坂では内室ガラシヤが、丹後では父幽斎が、共に絶体絶命の状況下で堪え忍んでくれていると信じていたからである。
徳川家康率いる軍勢(以後東軍)は尾張→伊勢→伊賀→大和に押し出し、大坂城に詰め寄る事となり、細川軍も東海道を西進していたが、同年八月三日、大坂屋敷で殉死した河北一成の家来が忠興に目通りを願い出て、ガラシヤ自刃の模様を知らせてきた。
この報に益々三成憎しの情を募らせた忠興率いる細川軍は、以後無類の強さを発揮する事となる。
三成は致命的な失策を犯した。最も怒らせてはいけない男を激昂させてしまったのである。
奥義
籠城は長期戦の状況を呈していた。長期戦となれば守り手に不利になるのは戦の鉄則であり、希代の知将とうたわれた細川幽斎が指揮する田辺城も例外ではなかった。寄せ手は二万の大軍に膨れあがり、田辺城を二重三重に包囲すると、接近戦を避けて大筒を射かけてきた。田辺城も大筒で応戦したが、兵糧攻めとなれば落城は必至であった。
城内に徐々に悲壮感が漂い始めていた慶長五年七月二十七日、寄せ手が驚愕する事件が発生した。皇弟八条宮智仁親王の侍臣大石甚助が、五奉行のひとり前田玄以配下の者を案内役にはるばる田辺へやって来たからである。寄せ手は思わぬ事態に動揺し、しばし戦闘は中断された。
籠城戦に先立ち幽斎は、己が討ち死にすれば古今伝授(※1)が絶えて終う事をひどく憂い、歌道の弟子であった八条宮智仁親王に対して「古今伝授を行うから大坂方の前田玄以に断って使者を派遣して欲しい」との書簡を親王に送っていたのであった。
入城してきた使者は幽斉に対して大坂方と和睦し開城するようにとの親王の勧告を伝えたが、『和を乞うて城を明け渡すは武士の本意に非ず』とこれを断り、七月二十九日、城内庭園の松の木の前で古今伝授を行った。すなわち、古今相伝の書籍を入れた箱に証明状を付し、
古へも今もかはらぬ世の中の 心のたねをのこすことの葉
の一首を添えて「源氏物語抄(※2)」と共に授けたのである。
なおこの時幽斎は、禁裏に「二十一代和歌集」、烏丸光広に「草紙十二帳」、前田玄以に「六家集十八帳」をそれぞれ進呈すべく、あわせて使者に託した。
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心 種 園
江戸時代の田辺藩主であった牧野氏が、細川幽斎の古今伝授の逸話に
感銘を受けて、城内の古今伝授の松を中心に築かせた日本庭園である。
明治の田辺城廃城後に荒廃したが、篤志家の尽力により現在に至る。 |
一縷の望みと思われた親王の和睦勧告を拒絶した以上、田辺城の命運は最早尽きようとしていた。
(※1)古今伝授
我が国最初の勅撰集である「古今集」の撰者であった紀貫之が、歌の中の特定の語句に何らかの秘密を込め、これを後世に伝えたという歌道伝授のことである。中世の学問・芸能
において重要な部分を秘説として伝承することが広く行われたが、「古今集」が和歌の規範であったことから「古今伝授」は最も権威あるものとされていた。その詳細は今以て不明であるが、幽斎はこれに神道とを融合させて宗教的色彩を加え、形式的にも内容的にも発展させていたと伝えられている。
(※2)源氏物語抄
幽斉は和歌の道を極めただけでなく、九条植道より「源氏物語」の奥義をも受けていた。
勅令
『幽斎討ち死にせば、本朝の神道奥義、和歌の秘密、永く途絶えて神国の掟も空かるべき
・・・・・・・』
丹後の一僻城での事態を八条宮智仁親王より奏上された後陽成天皇は、玉体をうち振るわせながらこう述べられたと伝えられている。禁裏は幽斎助命のために動き始めた。下々の争いごとには一切関知しないのが禁裏の鉄則であり、また乱世における処世術であったにも関わらず、一人の武将を存命させるべく行動を開始したのである。
禁裏の要請により、中院通勝、烏丸光広、冨小路秀直、三条西実条らの公家と神道宗家である吉田氏が行動を開始した。これらの者たちは皆幽斎との親交があり、幽斎助命のために禁裏が動くべく工作していたのである。
彼らはこぞって大坂方へ働きかけたが、その交渉の窓口となったのが五奉行のひとりであり、これまた幽斎と親交の深い前田玄以であった。玄以も何とか幽斎を存命させたいと考えていた一人であり、禁裏の意向と軍事的脅威となり得ない僻城の包囲に大軍を要している理不尽さを理由に、京都方の申し入れを快く聞き入れた。
京都方と大坂方の折衝の結果、「もし細川幽斎が田辺城を開城して洛外吉田山に蟄居するならば、その叡知を名分に存命させる」ことに決し、京都方と大坂方双方の使者が幽斎に和睦するよう勧めたが、幽斎はこれを頑なに拒絶した。
この事態に困り果ててしまったのが寄せ手の総大将小野木公郷であった。僅か五百人程度が守る田辺城を二万人の大軍を以てしても攻め倦ねていた公郷は、大坂方より「至急に戦闘を収拾して
秀頼様に馳走せよ」との命令を受け取っていたが、幽斎が和睦を拒んでしまったために包囲を解くことができなくなってしまったのである。
ここで包囲を解いて西軍に合流しようとすれば、以後他の武将から虚け者呼ばわりされることは間違いなく、かといって田辺城を強襲して落城させてしまえば、相当の兵を失うばかりか後に禁裏から叱責を受けることは間違いない。公郷は包囲を解くこともできず、落城させることもできないまま、いたずらに時を浪費していた。
籠城戦の開始より二ヶ月が経過しようとしていた慶長五年九月十二日、幽斎を救出すべく後陽成天皇は前代未聞の行動に出た。両軍和睦の勅使として中院通勝、烏丸光広、三条西実条を田辺に派遣したのである。
前田玄以の次男茂勝を召し連れて田辺に来着した三名は、『幽斎玄旨は文武の達人にて、ことに大内に絶たる古今和歌集秘奥を伝へ、帝王の御師範にて、神道歌道の国師と称す。今玄旨を殞さは、世に是を伝ふる者なし、速に囲を可解』との後陽成天皇の勅諚を携えていた。寄せ手の諸将は畏んで領掌し、これまで和睦を拒んできた幽斎もこれに従う旨を勅答した。
ここに五十二日間にわたる籠城戦は、勅令を以て終結し、難攻不落の田辺城は遂に開城されることとなった。
開城
慶長五年九月十三日、五十二日間にわたって激しい戦闘を繰り返した田辺城籠城戦は、後陽成天皇の勅命により終結した。田辺城は前田茂勝の請け取りとなり、城を包囲していた寄せ手諸将は退散していった。細川幽斎の身柄は前田玄以の預かりとなり、前田家の居城丹波亀山城へ移されることとなった。
出立に先立ち幽斎は、城中の者たちのこれまでの苦労をねぎらった。籠城中に家屋を焼失した者については木材を支給した。寄せ手は細川に味方する者は皆殺しを宣言し、見せしめのために細川に味方した者の家屋を焼き討ちしていたからである。幽斎はそれは丁寧に礼を述べた。そこにあったのは希代の知将の誉れ高い細川幽斎ではなく、公家が師と仰ぐ文化人幽斎玄旨の姿であった。
いくら勅命を奉じて和睦したとはいえ、居城を明け渡した以上は武将にとってそれは敗北を意味する。最大級の恥辱である。にもかかわらず幽斎は実に晴れ晴れとした面持ちで田辺の地をあとにした。
東西両軍の激突が間近に迫っていることは密偵が逐次報告してきており(細川氏に合力していた丹後の水軍は、寄せ手の厳重な包囲網を易々と突破していた)、最早二万からの大軍が西軍主力に加勢することは不可能であると察していたからである。
僅か五百の守備で二万の大軍相手に籠城戦を仕掛けたのも、度重なる和睦の勧告を拒否し続けたのも、すべては西軍の兵力を分断し東軍主力を有利に導こうとする幽斎の策略であったが、
知ってか知らずか、寄せ手の諸将はまんまとその策略にはまってしまったのである。
かくして田辺城開城より二日後の慶長五年九月十五日、関ヶ原において東西両軍主力は激突することになる。
激突
内室ガラシヤを見殺しにし、父幽斎を窮地に立たせても、細川忠興は一貫して徳川家康に味方していた。慶長五年八月十二日、忠興の合力を喜んだ家康は但馬一国を新たに進呈する旨の書状を送っている。
東軍の岐阜城攻めで比類のない戦功をたてた細川隊は、関ヶ原着陣の際には黒田長政隊・加藤嘉明隊と共に東軍右翼の布陣が許された。対する西軍左翼には、石田三成本隊が布陣していた。
何たる因果であろうか、三成本隊の猛将・島左近の娘は、丹後に於いて田辺城を包囲していた小野木公郷の内室であった。
慶長五年九月十五日、東軍の井伊直政隊の発砲により、両軍合わせて十八万とも二十万ともいわれる史上空前の大合戦の幕は切って落とされた。この合戦が内室ガラシヤの弔い合戦であると下知していた忠興は、全軍に対して三成の首を獲るべく突撃を命じたが、三成本隊はこれによく応戦し、戦況は一進一退の激戦となった。
合戦の結果は、諸氏よくご存じの通り小早川秀秋の寝返りから西軍は総崩れとなり、結果三成は敗走、東軍勝利で幕となった。
九月十八日、忠興は家康の本陣八幡山城に伺候した折、家康から『此度岐阜・関ヶ原での軍功諸手に勝れ、内室は先達大坂に於いて義死せらるる上、幽斎田辺に籠城して莫大の功労なり
』との最大級の讃辞を得た。家康は合戦後、初めて忠興の置かれている状況を知ったのであった。忠興は幽斎救出のため国許へ転戦したい旨を申し出て、家康もこれを快く了承した。
忠興は急ぎ軍勢を整え田辺に転進を開始したが、この時五千百名からの戦力は著しく消耗しており、三千名を下回っていた。翌九月十九日、忠興は山城上の野のに於いて田辺からの使者に遭遇し、幽斎が禁中の計らいにより上洛の途上であることを知った。
再会
慶長五年九月十九日、細川忠興と父・幽斎は馬堀にて対面を果たした。忠興は父の籠城戦での苦労を労い、幽斎は子の武勇を讃えた。
翌二十日、丹波亀山城主前田玄以が開城を申し出てきた。玄以は幽斎存命のために奔走してくれた恩人であったので、忠興は徳川家康に対し穏便な取り計らいを願い出ると共に、宿敵小野木公郷が引き籠もっている丹波福知山城を攻略する旨を伝えた。
家康は忠興に対して以下の返答を行った。すなはち・・・・・・・
一、丹波福知山城攻略を許可する
一、大津に於いて赦免した田辺城寄せ手の谷衛友・藤掛永勝
川勝秀氏並に前田茂勝を福知山城攻略に召連れて行かれたし
一、小野木公郷に対する処分は一任する
一、石田三成を生け捕ったので、忠興は大津に戻られたし
忠興に代わって福知山城攻略の指揮を執った舎弟細川興元は、かつて田辺城攻略の際に使用された後に放棄されていた大筒・石火矢をすべて丹波福知山へ回送させ、福知山城目がけて打ち込ませた。実際に打ち込んだのは谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・前田茂勝の手勢であった。興元は豆の皮で豆を煮る戦法をとった。細川一族の怨みの深さが見て取れる。
福知山城は田辺城と違い、天然の要害にかの明智光秀が手を加えた難攻不落の山城であった。田辺城で父幽斎が受けた苦しみを倍返しにしようとする忠興の意向もあり、攻略は長期戦の様相を呈していたが、家康は「天下が泰平となったのに人数を損じるのは無益の事」として、山岡道阿弥を福知山へ派遣して公郷を諭して下城させ、切腹を申し付けた。
慶長十五年九月二十七日より十数日間に及んだ福知山城攻略は、城主小野木公郷が丹波亀山城下の寿仙庵に身を寄せたことで幕となった。
報復
丹波福知山城を開城し亀山城下の寿仙庵に身を寄せた小野木公郷は、徳川家家臣の井伊直政・山岡道阿弥らにひたすら助命を願い出た。これを受けて井伊直政は徳川家康に対して「小野木公郷、切腹の要なし」と進言したため、家康は公郷の処分を一任していた細川忠興に下問した。
忠興は、「公郷が日頃石田三成と入魂にしていて忠興とは不仲であったが故に、田辺籠城では幽斎を是非攻め殺せと容赦ない攻撃を加えたことに対する恨みは骨髄に徹している。」と返答した。これを聞いた家康は公郷切腹は止むなしと判断した。
公郷は十月十八日寿仙庵に於いて切腹させられ、京都三条河原にて三成の東側にさらし首となった。
この結果に井伊直政は激怒した。しかし忠興にしてみれば直政が動いたと解っていて公郷を助命させることなど到底できなかった。直政はガラシヤ自刃事件の際に遁走した
稲富一夢を匿っていたからである。
忠興は父譲りの沈着冷静な知将であったが、一度怒り出せば手がつけられない一面も持ち合わせていた。
その気性はかの織田信長に瓜二つであり、それ故に忠興は信長の寵愛を受けたとまで言われている(信長直筆の書状で唯一現存が確認されているものは、忠興の初陣での武功を信長が褒め称えている内容である)ほどである。たとえ相手が徳川家臣団の中で『井伊の赤揃え』と恐れられる猛将であっても、忠興は何ら臆することはなかった。
対面を潰された直政は家康に対して「忠興の如き野蛮な者を畿内に置くことは無用である。」と進言した。家康も重臣の進言を無視するわけにもいかず、八月十二日に約束された但馬一国の加増は沙汰止みとなってしまった。
家康は些細な事に難癖を付けて約束を違える事が非常に多い。忠興もそのことを充分承知していた筈である。忠興にとっては一生の不覚であった但馬加増沙汰止みであったが、
忠興の気性(信長の気性)を知り尽くしていた家康にとっては計算通りてあった感が否めない。
転封
関ヶ原の合戦から一ヶ月余り、文字通り覇者となった徳川家康は、同戦の軍功に応じ諸将に恩賞を与えていった。
但馬一国の加増が沙汰止みとなり、丹後も国替えのため召し上げとなった細川忠興であったが、代わりに豊前国一国と豊後国のうち速見・国東両郡を合わせて拝領する事となった。検知高三十九万石、およそ三倍の大加増であったが、この転封により忠興は畿内より九州へ移ることとなった。家康は敵にまわすと厄介な諸将を次々に北へ南へと遠ざけていったのである。
十二月、忠興は臨時の城代を務めていた福知山城を有馬豊氏に、丹後国を京極高知にそれぞれ引き渡し、自らは豊前に向けて出発した。
立別れ 松に名残はおしけれど 思ひ切れとの 天橋立
出発の際、忠興が詠んだとされる句である。「松」を「末」に変えてみれば、忠興の心情がよく解る。
細川氏にとって、丹後国の支配はわずか二十一年間に過ぎなかったが、この二十一年間は常に細川氏滅亡の危機と隣り合わせていた期間であった。この危機を常にかわし続けた細川氏は、以後外様の大大名としてその名を轟かす事になる
。
系譜
豊前国一国と豊後国のうち速見・国東両郡を合わせて検知高三十九万石の大名となっていた細川氏は、幽斎・忠興と数えて三代忠利(幼年期に徳川へ人質に出されていた忠興の三男)の時に肥後熊本へ入封し、石高も五十四万石(実高七十四万六百四十石)に膨れあがった。
しかし細川氏は徳川幕府の体制下では外様大名である。五十四万石の格式を維持しながら江戸との参勤交代の費用を捻出する事は容易ではなく、四代光尚・五代綱利あたりで藩の財政は傾き始め、六代宣紀
あたりですでに末期的症状を呈していた。六代宣紀は江戸で逝去したが、熊本藩には七代藩主宗孝が江戸へ出府する旅費すらなかったと伝えられている。(余談であるが七代藩主宗孝は江戸城内において人違いで惨殺されており、江戸城中刃傷七大事件のひとつに数えられている。)
そんな中登場したのは若干二十八歳の八代(肥後熊本藩六代藩主)重賢であった。藩の財政に大鉈を振るった重賢は、後に上杉鷹山や松平定信をして「我が手本」と言わしめた。
時は流れ、明治の初期、熊本藩は廃藩置県により熊本県となったが、熊本藩の藩主を代々務めてきた細川氏には明治天皇から爵位が下賜され、大日本帝国憲法下の日本において細川氏の系譜は脈々と生き続けた。
そして今も生きている・・・・・・・・
第二次世界大戦後、旧田辺城下であった舞鶴市(舞鶴は田辺城の美名)は、田辺城の城門を復元する計画をたて、国庫の補助のもとこれを完成させた。落成式には田辺城ゆかりの人物として熊本県知事が招待されていたが、残念なことに知事は「公務多忙につき・・・・」との理由で来鶴を辞退した。
この熊本県知事こそ、細川幽斎以来脈々と続く細川氏直系の子孫であり、のちに日本国第七十九代内閣総理大臣となる細川護煕氏である。