丹後(舞鶴市・宮津市・京丹後市・与謝野町・伊根町)の観光協会は共同して『丹後七姫』を定めて、観光資源の発掘とPRに務めています。
ここでは丹後七姫の横顔を紹介したいと思います。
乙姫(おとひめ)
時は雄略天皇の御代(五世紀頃)、丹後の漁師浦嶋子は沖に出て釣りをしていましたが、三日三晩一匹の魚も釣れませんでした。
諦めて竿を上げるとそこに五色の大きな亀が現れました。
亀を眺めるうちに眠りについてしまった浦嶋子が目覚めると、亀は美しい乙姫の姿に変わっていました。二人は常世の国(竜宮城)へ赴き、楽しい日々を過ごしましたが、里心のついた浦嶋子は故郷に還り、決して開けてはならないと言って渡された玉手箱を開けると・・・・
日本最古の浦嶋伝説が伊根町の宇良神社に伝わっています。
羽衣天女(はごろもてんにょ)
昔、磯砂山の山麓で八人の美しい天女が水浴びをしていました。その様子をそばで見ていた老夫婦が一人の天女の羽衣を隠してしまったため、その天女は天に還ることができなくなってしまい、やむなく老夫婦の養女として暮らすことになりました。
天女は稲作・養蚕・酒造の技術を伝え、老夫婦はすっかり裕福になりましたが、ある日老夫婦は「汝は我が児に非ず」として天女を追い出してしまいました。
悲しみに暮れた天女(豊宇気比売)は、奈具の村に行き着き・・・・・・
京丹後市峰山町に伝わる羽衣伝説は、丹後風土記にも登場する日本最古のもので、奈具神社には豊宇気比売がお祀りされています。
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
穴穂部間人皇女は、欽明天皇の息女で用明天皇の后、厩戸皇子(聖徳太子)の生母です。
六世紀末、中央で蘇我氏と物部氏の権力闘争が激化した折、戦火を避けるために一時日本海沿岸部に避難していたのだと云います。
何年か後、政情が落ち着き都へ帰る折、世話になった里人達へ感謝の意を込めて、皇女は自分の名前を里に与えましたが、里人達は「畏れ多いこと」として苦慮した結果、間人の字を皇女の御退座にちなんでたいざと読み替えてこの地の地名にしたそうです。
※現地では単に間人皇后と呼ばれていますが、間人の名を持ち、尚かつ天皇の后となった皇女は二名在り、学術上他方は間人皇女(孝徳天皇后)と呼ばれている事から、当webでは混乱を避けるため、穴穂部間人皇女としました。
細川ガラシヤ(ほそかわがらしや)
細川ガラシヤは、戦国武将明智光秀の娘で、本名を玉と云います。
織田信長の勧めで細川藤孝の嫡男忠興の元へ嫁ぎ、幸せな日々を過ごしていましたが、実父明智光秀が主君織田信長を討った(本能寺の変)事で事態は一変、玉は幽閉されてしまいます。
幽閉先の京丹後市弥栄町味方野で彼女はキリスト教に触れ、後に信仰に救いを求めてガラシヤの洗礼名を授かります。
関ヶ原合戦前夜、東軍に荷担する武将の正室を人質に取ろうとした西軍の軍勢が大坂の細川屋敷を急襲した折、人質となることを恐れたガラシヤは屋敷に火を放ち、キリスト教の教えで自刃できないことから家老に胸を突かせて絶命しました。
享年三十八歳の若さでした。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
(細川ガラシヤ 辞世の句)
安寿姫(あんじゅひめ)
安寿と厨子王の父は、元来奥州のとある国の領主でしたが、平将門の乱に荷担した嫌疑をかけられ筑紫の国に追放されてしまいました。父を慕って筑紫へ向かった姉弟は、旅の途中で人買いに騙され、丹後の山椒大夫に売り飛ばされてしまいました。
姉弟に待っていたのは昼夜を問わずの苦役でした。「何とか厨子王だけでも・・・・」そう考えた安寿は、山椒大夫の目を盗んで厨子王を逃がすことに成功しますが・・・・
怒り狂った山椒大夫に責め続けられた安寿は、立派に成人した厨子王が助けに来る前に池に身を投げたと伝わっています。
静御前(しずかごぜん)
源義経の寵愛を一身に受けた美しい白拍子の静御前は、京丹後市網野町に生まれたとの説があります。
源頼朝よって義経と引き離され、宿していた義経の子も生後直ぐに殺されてしまった傷心の静は、生まれ故郷の網野へ戻り、この地で20余歳の短い生涯を終えたのだと云います。
静の死を悼んだ村人達は、静神社を建立し、彼女の御霊を慰めることにしたとの事です。