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日子坐王伝説

 土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとか言われていますが、大和国家の側が征服した人々を異族視してつけた賎称です。
 丹波(後に分国されて丹後となる)は古代より土蜘蛛の巣窟とされ、度々討伐軍が派遣された地域でした。土蜘蛛と討伐軍が激しく争ったとする伝説は、在地勢力対大和国家の対立の構図を浮かび上がらせます。
 古代の丹後地方は大陸の文化を受け入れ、独自のすぐれた文化をもっていました。
丹後における土蜘蛛退治の伝承で最も古いものが、「丹後風土記残缺」に記された陸耳御笠と日子坐王の伝説です。

陸耳御笠と匹女

 第十代崇神天皇の御代、陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)を首領とする土蜘蛛が丹後国の青葉山中に棲みつき、人々を苦しめていました。
朝廷は土蜘蛛を討伐すべく日子坐王(ヒコイマスノキミ)率いる官軍を派遣しました。

丹後屈指の霊峰、青葉山

土蜘蛛が棲んでいたとされる青葉山は、古代より丹後屈指の霊峰であり、この山に祖神を祀っていたのが海人族でした。

甲岩と鳴生

 勅を奉じた日子坐王率いる官軍は、青葉山から陸耳御笠らを追い落とすことに成功し、引き続き土蜘蛛の追撃を開始しました。
丹後国と若狭国の境に到った時、忽然と光り輝き鳴動する巌石がありました。形が金甲に似ている事から、日子坐王はこれを将軍の甲岩と名付け、以後甲岩のある地域は鳴生(ナリウ)と呼ばれるようになりました。

鳴生は現在の成生です。
土蜘蛛たちは海に向かって敗走したことになります。

匹女死す

 敗走を続ける陸耳御笠ら土蜘蛛と日子坐王率いる官軍は、由良川水域で再び激突しました。
 この戦闘で匹女が討ち取られ、その血は辺り一面を赤く染めた事から当地は血原と呼ばれるようになりました。
 一度は降伏を考えた陸耳御笠でしたが、退路を断つべく川下から日本得魂命(加佐郡一帯の領主)の軍勢が攻めてきた為、一か八かの勝負に出ます。すなはち、河を越えて対岸の日子坐王の本陣を強行突破すべく総攻撃を開始しました。

血原は現在の千原です。

激闘の末に・・・

 不意を突かれた官軍でしたが、河原に楯をズラリと並べて防備を固めると、蝗(いなご)が飛ぶ如く矢を射掛けました。この戦闘で土蜘蛛の党はほぼ壊滅しましたが、首領である陸耳御笠は行方知れずとなりました。

本陣跡には今でも河守(コウモリ)、楯原の地名が残っています。

駆逐すれども討ち取れず

 日子坐王は由良の港で礫を拾い、陸耳御笠の行方を占ったところ、与謝の大山に登った事が解りました。

 丹後風土記残缺の記録は、ここで終わっています。すなはち日子坐王は、青葉山から土蜘蛛を追い払ったものの、首領である陸耳御笠を討ち取る事には失敗している様です。

与謝の大山とは現・大江山連邦と思われます。

土蜘蛛の最期

 日子坐王と陸耳御笠の戦闘の模様は、以後「但馬世継記」に受け継がれます。
 但馬世継記によると、陸耳御笠は海岸伝いに丹後から但馬に敗走し、最期但馬海岸の鎧浦にて日子坐王に討ち取られたとの記録が残っているそうです。

 

付記1・日子坐王

 日子坐王は、記紀系譜によると開化天皇の子で崇神天皇の弟とされる皇族で、四道将軍「丹波道主命」の父にして古代十九氏族の祖とされていますが、実在を疑問視する声も多い謎の人物です。
 日子坐王は、近江を中心に東は甲斐、西は吉備までの広い範囲に伝承が残っています。


 なお、日子坐王は本来和邇氏の司祭する日神であり、古事記作成に関与した和邇氏によって和邇氏の祖神としての地位を与えられたのではないか?とする説もあるようです。

付記2・陸耳御笠

 丹後風土記残缺では、「笠郡」と記して「ウケノコオリ」と読ませている部位がある事から、陸耳御笠は正しくは「クガミミノミウケ」なのかも知れません。
 谷川健一氏は著書『神と青銅の間』の中で、
「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習を持ち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」とされています。

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