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『丹後風土記残缺』の記事
『丹後風土記残缺』とは、八世紀に国の命令で丹後国が提出した地誌書とも言うべき「丹後風土記」の一部であり、京都北白川家に伝わっていたものを、十五世紀末に丹後国一之宮籠神社の社僧・智海が筆写したものとされています。
その中に、凡海郷に関する記事があります。
凡海郷者。
凡海郷は
往昔。去此田造郷万代浜四拾三里。去□□三拾五里二歩。
田造郷の万代浜から四十三里 □□から三十五里二歩に位置する
四方皆属海壱之大島也。
四面皆海に囲まれた一つの大島であった
所以其称凡海者。故老伝日。往昔。
凡海と称する所以は 故老の伝て曰く 昔
治天下当大穴持命与少彦名命到坐于比地之時。
天下を治めるに当り大穴持命と少彦名命がこの地に到った時に
引集海中所在之小島之時。潮凡枯以成壱嶋。
海中の小島を引き集めた時 潮が凡て枯れて一つの嶋となった
故云凡海矣。
故に凡海と云う
于時。大宝元年三月己亥。地震三日不已。此郷一夜為蒼海。
大宝元年三月己亥 地震が三日続き この郷は一夜にして蒼海となった
漸纔郷中之高山二峯与立神岩出海上。
漸く郷中の高山二峯と立神岩が海上に出ているのみである
今号云常世嶋。亦俗男嶋女嶋。
今では常世嶋 亦は男嶋女嶋と呼ばれている
毎嶋在神祠。所祭者。天火明神与日子郎女神也。
嶋毎に祠が在り 天火明神と日子郎女神が祭られている
是海部直並凡海連等所以斎祖神也。
これは海部直並びに凡海連等らが斎祭る祖神である
凡海郷は幻か?
「凡海郷伝説は後世の作り話である。」 これがつい最近までのアカデミズムの認識でした。凡海郷が海没する原因となった大宝元年(西暦701)三月の大地震は、『丹後風土記残缺』や『続日本記』に記録が残っていますが、地質学的にはその様な天変地異が起こったとは考えにくい事に加え、『丹後風土記残缺』には根強い偽書説があったからです。 雄島(おしま)にある老人嶋(おいとしま)神社は、天火明命をお祀りする丹後屈指の古社で、かつては遠く因幡や出雲の漁師さんも参拝に訪れる程厚く信仰されていました。
おしま(Oshima)=おいとしま(Oitoshima)=おおしあま(Ohshiama)
「凡海郷伝説は老人嶋神社の権威付けの為の創作である。」 これがアカデミズムの常識でした。
覆った「常識」
昭和30年代後半になって、かつて陸の孤島と呼ばれていた舞鶴市の大浦半島にもようやくインフラ整備の目が向けられ始めました。 その課程で、『有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)』と呼ばれる石器時代の矢じりが発見されました。これは今から約1万年前の石器で、その頃から大浦半島に人が住んでいたことを物語っています。 つづいて昭和51年、大浦半島の三浜(みはま)地区で古代の製塩土器が発見されました。後の調査によって三浜の製塩遺構はかなり大規模なものであり、製塩土器が現在の海岸線と殆ど変わらない位置から発見される事から、少なくとも奈良時代には現在とほぼ同じ海岸線が成立していた事がうかがわれました。従って、大宝年間に島が海没するほどの天変地異があったとは考えにくく(大津波によって海岸線に変化が見られるはず)、凡海郷の存在はやはりおとぎ話だと思われていました。 ところが、大浦半島の他の地区で次々に古代製塩の遺跡が発見されるに至り、凡海郷はにわかに脚光を浴びることになります。海の民と製塩はつよく結びついていることが全国の古代研究の成果からわかってきており、海の民との関わりを伝説に於いて色濃く残している凡海郷が実在していた可能性が出てきたからです。
『加佐郡誌』の記録
大正4年に刊行された『加佐郡誌』の古地図によると、凡海郷は大浦半島と対岸の由良川下流域からなる郷として描かれています。
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加佐郡古代の郷(加佐郡誌より) |
これは奇しくも最近の発掘調査から導き出された仮説に合致するもの(大浦半島と由良川下流域は、共に多数の製塩遺構が発見されている)であり、現在ではこれが通説となっています。
凡海郷と志楽郷
しかしその仮説は最初から矛盾を抱えていました。『丹後風土記残缺』によれば、大浦半島の成生、二石崎(瀬崎)の地名が志楽(しらく)郷の地名として紹介されているからです。
志楽郷は凡海郷と並んで海部との結びつきが強い地域でした。郷内には霊峰青葉山が在り、山頂には笠津彦(うけつひこ)神と笠津姫(うけつひめ)神をお祀りした祠が現在も存在しますが、この二神は海部の祖神だと言われています。その他かつての志楽郷である東舞鶴地区には、倉梯山の天蔵神社、祖母谷山口神社、朝来の御田口神社、小倉の布留神社など、海部ゆかりの神を祀った神社が数多くあります。海部との結びつきがもっとも強い大浦半島を志楽郷とするのか凡海郷とするのかですが、これは大変難しい問題です。
もしも本当に神代の昔、冠島あたりに郷を名乗れるほどの大きな島があり、地震によって水没してしまったならば、生き残った住民は凡海郷から最も近い志楽郷の沿岸部に流入した
可能性があります。もしもそうならば、本来志楽郷の一部が凡海郷と混同されても何ら不思議はないと思うのですが・・・・・・
浦入遺跡は何を語る?
浦入(うらにゅう)遺跡は、関西電力(株)の舞鶴火力発電所の建設に先立って発掘された遺跡で、縄文時代〜平安時代までに至る複合遺跡です。この遺跡の5300年前の地層から、平成10年に丸木舟が発見されました。幅約0.8メートル、推定長8〜10メートルの
大きさは、縄文時代前期のものとしては最大・最古級の巨大な丸木舟で、外洋航行も十分可能であ
ったであろうと言われています。
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5300年前の地層から出土した丸木舟(浦入遺跡)
画像提供:後守吉治氏 |
注目すべきは発掘されたときの状況であり、一段高く造られた石垣の上に、舟首を南に向けて砂に埋まっていた事です。
この丸木舟は、使われなくなった後は信仰の対象となっていたのではないでしょうか?
日本書紀には、塩土翁(しおつちのおきな)から東に好い国があると聞いた神武天皇が東征を思い立つくだりが出てきます。
その中で塩土翁は、『その東の国に頑丈な丸木舟に乗っていったものがある』と話し、それを聞いた神武天皇は、『それは饒速日命(にぎはやひのみこと)であろう』と語ったとされています。 この饒速日命が、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)であるならば、それは海部の祖神である彦火明命の亦名です。
浦入遺跡から出土した丸木舟が、『頑丈な丸木舟』だった可能性はないでしょうか?
浦入地区は、かつては大丹生村の小字であり、裏丹生と記しましたが、中世以後は波佐久美村(のちに千歳村と改名)の小字となりました。 日本書紀は、天武天皇の即位の際に用意された主基(大嘗会の儀の際、朝に食べる食事)の供納地は、丹波国訶佐郡(伽佐郡の誤りと思われる)としており、江戸時代の書物である田辺府志は、これは千歳村の事であるとしています。しかしながら千歳村は本来耕地の乏しい漁村であり、千歳の耕地と言えば一般には浦入(裏丹生)の事を指します。
主基の供納地は裏丹生だった可能性はないでしょうか?
天武天皇は即位前には大海人皇子(おゝしあまのみこ)を名乗っていました。この名は養育係であった凡海連(おゝしあまのむらじ)に由来するものとされています。凡海連は海部の一派であり、天武天皇即位の大功労者です。
主基の供納地に丹波国伽佐郡が選ばれたのは、海部ゆかりの地だったからではないでしょうか?
ニギハヤヒ、海部、丹生、天武帝・・・・・・ありとあらゆる可能性が、浦入遺跡で重なり合おうとしています。

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