名 称 元伊勢外宮豊受大神社
所 在 地 京都府福知山市大江町字天田内船岡山
主 祭 神 豊受大神
相 殿 日子番能邇々杵命(ひこほのににぎのみこと)
天児屋根命・天太玉命
奥 宮 −
摂 社 多賀神社・土之神社・月読宮・風之神社(四社を以て四所別宮と称す)
末 社 三十七社
祝 部 河田氏
御由緒(豊受大神社由緒書による)
当社は旧号を与佐宮と称へ豊受大神を御主神として仰奉り、境内末社には全国の名神大社の神々が奉斎されています。大神は人類生存上一日も欠くことの出来ない衣食住の三大元を始め広く産業の守護神であり、国民に篤い御加護を垂れさせ給ふ大神に座します。皇祖天照大御神は天孫降臨以来皇居に奉斎されていましたが、人皇第十代崇神天皇の代に至りまして天皇のお住まいと同じ皇居にお祭りしているのは誠に畏れ多いと思召され、即位六年に倭国笠縫邑に御遷座になりまして、皇女豊鋤入姫命が祭事を掌っていられました。この地に三十三年間御鎮座になりましたが、別に大宮地を求めて鎮め祭れとの天照大御神の御神勅がありましたので、同三十九年に当地を大宮地と定め給いて大和国笠縫邑より遷御されたのであります。
当地で初めて宮殿を建立され大御神を奉斎されたのであります。此の時同時に豊受大神を合わせ祀られたのが当社の創始であります。
境内を比沼の真名井ヶ原と称へ孤立した一丘陵を形成し、御神霊の静まり座すに相応しい神秘な霊域で一萬余坪の御山であります。天照大御神は四年間御鎮座になりましたが、更に大宮地を求めて当地を出御されます。豊鋤入姫命は各地に大宮地を求めて御遷幸中既に老齢に向かわれましたので、途中第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が御引き継ぎになられ、垂仁天皇二十五年に現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と定められ御鎮座にになったのであります。笠縫邑を出御されてより五十年間の歳月を経ております。然しながら豊受大神は御鎮座以来御移動がなく、此の真名井ヶ原に鎮まり給いて万民を恵み守護されてきました。ところが五百三十六年後の第二十一代雄略天皇二十二年に、皇祖天照大御神の御神勅が天皇にありました。その御神勅は「吾れ既に五十鈴川上に鎮まり居ると雖も一人にては楽しからず神饌をも安く聞食すこと能わずと宣して丹波の比沼の真名井に坐豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との御告でありました。同様の御告が皇大神宮々司大佐々命にもありましたので、天皇に奏上されたところ非常に驚き恐れ給いて直ちに伊勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立され、大佐々命をして豊受大神を御遷座になったのであります。然しながら豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の信者は引き継ぎ大神の御分霊を奉斎して元伊勢豊受大神宮と尊称し、現在に及んでいるのであります。
建築様式
豊受大神社の社殿は神明造で、本殿の勝男木は
九本、千木は外そぎで、左右に棟持柱があります。
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豊受大神社本殿 |
鳥居の形式は元伊勢内宮の皇大神社と同様で、杉の木を皮を剥がないまま組まれている黒木鳥居です。黒木鳥居の名前の由来は、樹皮の色からともクヌギが転じたものとも言われていますが、日本国中でも余り例がない(京都・野々宮神社が有名)特異な形状です。
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皇大神社と同様の黒木鳥居 |
社殿の配置は本殿の前面に拝殿があり、左右に摂社があり、その周りを末社がコの字に取り囲むように鎮座しています。この配置も元伊勢内宮の皇大神社と同様です。
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本殿を取り囲むように末社が建ち並ぶ |
伝承・異聞
豊受大神社は御由緒書きにもあるとおり、他の山々とは孤立した一丘陵に鎮座しています。この丘陵は船岡山と称します。船岡山は昔から古墳説が根強い地ですが、仮に船岡山が古墳であるとするならば、全長は二〇〇メートル前後はあると思われ、網野銚子山古墳や神明山古墳と並ぶ丹後屈指の巨大古墳、日本海沿岸部屈指の巨大古墳となります。
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こちらにも龍灯の杉がある |
この形状は何を意味するのか? |
船岡山が古墳であるならば、埋葬者は一体誰なのでしょうか?偽書の烙印を押されてしまった歴史書『秀真伝(ホツマツタヱ)』には驚くべき記述があるそうなのですが・・・・・
私的感想
元伊勢外宮である豊受大神社は、元伊勢内宮である皇大神社と一緒に参拝される方が多いと思います。私の知人・友人もそうしているようです。
「皇大神社は素晴らしい。けど豊受大神社は・・・・・」との感想をよく見聞きします。確かに荒れた感じがします。しかし右上の杉の形状などは、神域でしか見ることが出来ないものだと思います。
鉄道の敷設によって矢部山、砥石岳等の山々と地脈が切れてしまった為に、本来の神社としての機能が十分に発揮できなくなってしまったのではないかと私は推察します。
※このページの画像は総てMS調査隊から提供を受けました。この場を借りて篤くお礼申し上げます。
