|
籠神社
〜山陰道一の大社〜
|

|
|
朝靄にけむる籠神社
|
名 称 籠(コノ)神社 所 在 地 京都府宮津市字大垣430 主 祭 神 彦火明命(亦名 天火明命 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命) 相 殿 豊受大神 天照大神 海神 天水分神 奥 宮 真名井神社 摂 社 蛭子神社 真名井稲荷神社 末 社 春日大明神社 猿田彦神社 祝 部 海部(アマベ)氏 当代宮司の海部光彦氏は八十二代
|

|
|
一連の計画に基づき着々と整備が進んでいる
|
御由緒(籠神社編纂による)
神代の昔と言われる遠い上代から、今の奥宮の地真名井原に匏宮(ヨサノミヤ)とし申して豊受大神が御鎮座になっていましたが、その御由緒故に崇神天皇の御代に天照大神が大和國笠縫邑から御遷座になり、以後四年間御鎮座になりました。
籠神社(コノジンジャ)の名称は、神代に彦火明命が籠船に乗って龍宮に行かれた故事に因む名称であり、「籠」を上古において「コ」と発音した事から「コノジンジャ」と称します。
籠神社の社格は、奈良朝以後は丹後國一之宮に列せられ、延喜式内名神大社にして山陰道八ヶ国中唯一の官幣大社であり、神階は最終的に正一位にまでなりました。 明治の制においては国幣中社に列せられましたが、官幣大社昇格運動の末、昭和20年3月25日、時の帝国議会は満場一致で昇格を可決した秘史があります。
(籠神社パンフレット・元伊勢籠神社御由緒略記より抜粋)
建築様式
籠神社の社殿は唯一神明造と呼ばれる独特の建築様式で、これは他に伊勢神宮以外には見られない様式です。三十年毎に御造替がおこなわれていましたが、江戸時代以降は適宜修繕にとどめているそうです。 本殿の勝男木は十本、千木は内そぎで、心御柱があります。また、本殿高欄には五色の座玉と呼ばれる宝玉が飾られていますが、これも伊勢神宮以外には見られないもので、籠神社の格式の高さを伺い知ることができます。
|

|
|
籠神社拝殿の勝男木と千木 |
伝説と異聞
籠神社は、数々の宝物を所蔵しています。
「籠明神祝部海部直等之氏系図(通称・海部氏系図)」は、海部氏の始祖彦火明命から平安初期に至るまでの当主名と在位年月を書き記したものですが、これは現存する日本最古の系図であり、系図としては唯一国宝に指定されています。
|

|
|
海部氏系図に記された海部氏四代
倭宿禰命像
|
「海部氏伝世鏡、息津鏡・邊津鏡」は、海部氏が二千余年に渉って無二の神宝として伝世してきた銅鏡で、息津鏡は後漢時代、邊津鏡に至っては前漢時代のものであり、伝世鏡(古墳などから掘り起こした鏡でない)であるとの学術的鑑定を受けています。
境内参道に鎮座する狛犬は鎌倉時代の作といわれており、国の重要文化財に指定されています。
この狛犬は、あまりの出来の良さ故に魂を宿し、夜な夜な籠神社を抜け出しては天橋立を徘徊し、人々を驚かしていたのだそうです。伝説の豪傑・岩見重太郎に退治されて以来神格を宿し、神社守護の任に精を出しているとの事です。(近年酸性雨による損耗が激しいため、狛犬には屋根がかけられています。)
|

|
|
籠神社狛犬
前足に岩見重太郎に斬りつけられた刀傷がある |
真井御前のお話
時は平安初期、海部直の三十一代雄豊の娘に厳子姫があった。彦火明命を血脈の祖神に戴く、神代以来の祝部(神官)の家柄であったが、当時奈良時代以来の鎮護国家の仏教に、空海や最澄の平安密教の説く即身成体の思想が新風を吹きこんでいたさ中、もの心ついた厳子姫は十才にしてふと誘われる如く都に上り、頂法寺の六角堂に入り、ここで手芸礼儀作法等の教養を積む傍ら、如意輪の教えに帰依し、日々真言の呪を唱えつつ修行に励んだのであった。未だ年端はゆかないながらも、その生地の豊受大神が神代より鎮まり坐す、与佐の真名井原に湧く真名井の御霊水の御蔭を蒙ったのか、身も心も浄化された、天性の美しさとやさしさと、只ならぬ気品をただよわせた、しとやかな女性であった。
|

|
|
真名井の御霊水(真名井神社境内) |
弘仁十三年(八二二)姫が年二十才の時、未だ皇太子であられた、後の淳和天皇に見そめられ、第四の妃として迎えられ、名前も故郷に因んで真井御前と稱し、帝の寵愛を一身に集めたのであった。
然しこの生活も長くは続かず、後宮の女官達の激しい嫉妬に世の無情を感じ、二十六才にして侍女二人を連れて宮中を出で、観音のお告げのままに西宮なる如意輪摩尼峰に至り、一宇を建てた。
この年天長五年(八二八)十一月、真井御前は弘法大師を甲山に迎えて、十七日間の如意輪の秘法を修した。その翌年正月再び大師を請じて受明潅頂を受けられた。この年五月御前は役行者の足跡を慕って遥に吉野に赴き、修験の山大峰に登らんとした。
然し土憎等が、ここは大うわばみが道をふさいで通れません、又この山の神は女人の入るのも許しませんと云っていさめたが、御前はこれにひるまず、この山にも女神が在し坐すと聞いています。又、蟒は穢れた肉をこそ好みますが、私のような浄まった肉体にどうして害を致しましょうと云って、遂に大峰に入り、二十一日の行を成し遂げて、山を出て来たのである。これを見て土憎等は大変驚き、これはきっと神女であろうと篤くもてなした。そして真井御前の肖像を役行者と共に祀ったと云う。
又、次の天長七年二月十八日には阿闇利灌頂を受けられた。同じ年の三月十八日、御前は如意輪の像を造ろうとされ、弘法大師は山内の木をトして大きな桜の樹を撰び、これを御前の等身に準じ、凡そ三十三日を費して、その生き姿をモデルとして大悲の尊像を彫刻されたのである。この間御前は如意輪尊の真言三千遍を日夜唱え続けたと云われる。
これが今西宮市甲山の神呪寺(通稱甲山大師)の秘佛本尊と崇められる、如意輪融通観音であり、天下の三如意輪の随一とも云われて、重要文化財の指定を受けている。
かくして天長八年(八三一)十月十八日、再び大師を請じて大殿が落慶した。この日御前は自ら髪を截り、三つに束ね分けて、一つは大悲の尊像に献じ、一つは淳和帝に奉り、一つは弘法大師に施し、拝して具足戒を受け、法の諱を如意と号した。
かくして同じ年の三月二〇日、如意尼は弘法大師の坐す南方に向って合掌して坐し、如意輪観音の真言を誦しながら、そのまま紫雲に乗って遷化した。齢正に三十三才であった。朝廷は使を遣し、追悼の辞も贈ってねんごろに葬ったと云う。
すると如何なる冥合であろうか、その明くる日、即ち三月二十一日、高野山なる弘法大師は、恰も真井御前の後を追うかの如く、六十二才にて人定されたのである。師と弟子が一日を置いてみまかられた事、誠に霊異と云う外ない。
(籠神社パンフレット・元伊勢籠神社御由緒略記より抜粋)
私的感想
伊勢へ詣らば 元伊勢詣れ 元伊勢 お伊勢の故郷じゃ 伊勢の神風海山越えて 天橋立吹き渡る(宮津の民謡より)
籠神社は宮津市にありますが、宮津とは吉佐宮の港(津)に由来するのだそうです。宮津といえば日本三景のひとつ・天橋立が有名ですが、この天橋立はかつて籠神社の社領地であり、参道でした。一度でも天橋立を歩いたことがある方ならば、いかに籠神社が権勢を誇っていたかを想像できると思います。かつて和泉式部や細川忠興など、歴史上の有名人が絶賛した天橋立は、籠神社の一部だったのです。 籠神社がいかに素晴らしい神社であるかを語るには、奥宮の真名井神社を紹介しなければならないのですが、真名井神社は豊受大神ゆかりの宮である為、項を改めて紹介したいと思います。

|