|

彷徨い続けた天照大神
時は崇神天皇の御代、日本国中に疫病が大流行し、国民の半数が死亡するほどの猛威を振るいました。事態を憂いだ天皇は、朝夕に天神地祇に祈りを捧げ
られにもかかわらず、その勢いは一向に止まりませんでした。
この国難を、宮中で祭祀している天照大神(アマテラスオゝミカミ)と倭大國魂神(ヤマトオゝクニタマノカミ)の不仲によるものと
思慮された天皇は、天照大神を皇女豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に託して祀らせ、倭大國魂神を市磯長尾市宿禰(イチシノナガオチノスクネ)に託して祀らせ、占いの結果祟りをなしている事が判明した大物主神(オゝモノヌシノカミ)を太田田根子
命(オゝタタネコノミコト)に託して祀らせたところ、ようやく疫病は収まりました。
|

|
|
倭大國魂神を祀る大和神社(奈良県天理市) |
この一件以来、倭大國魂神は倭国(ヤマトノクニ)の大和(オゝヤマト)神社に、大物主神は倭国の大神(オゝミワ)神社にて祭祀されることになるのですが、倭国の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀られた天照大神は、それ以後約六十年の歳月を要して二十五回も遷宮を繰り返し
、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座することになります。 天照大神が神宮(伊勢神宮を正しく呼称する場合、「伊勢」は付けない)の内宮に鎮座する以前に立ち寄った先を、元伊勢と呼びます。
皇女・豊鍬入姫命と倭姫命
天照大神の巡幸先は下記の通りです。
天照大神巡幸地一覧(倭姫命世紀による)
一、倭 国 笠縫邑 二、但波乃 吉佐宮 三、倭 国 伊豆加志本宮
四、木乃国 奈久佐濱宮 五、吉備国 名方濱宮 六、倭 国 彌和乃御室嶺上官 七、大和国 字多秋志野宮
八、大和国 佐々波多宮 九、伊賀国 隠市守宮 十、伊賀国 穴穂宮 十一、伊賀国 敢都美恵宮 十二、淡海国 甲可日雲宮 十三、淡海国 坂田宮 十四、美濃国 伊久良河宮 十五、尾張国 中嶋宮 十六、伊勢国 桑名野代宮 十七、伊勢国 奈具波志忍山宮 十八、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮 十九、伊勢国 飯野高宮 二十、伊勢国 佐々牟江宮 二一、伊勢国 伊蘇宮 二二、伊勢国 大河之瀧原宮 二三、伊勢国 矢田宮 二四、伊勢国 家田田上宮 二五、伊勢国 五十鈴宮(現今の大神宮)
 |
|
神宮(三重県伊勢市) |
天照大神は当初皇女豊鍬入姫命を御杖代(ミツエシロ)として各地を巡幸していましたが、豊鍬入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に交代しました。倭国、彌和乃御室嶺上宮(現・三輪山山頂か?)までは豊鍬入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸しました。
但波乃吉佐宮
天照大神の遷宮伝説を、大和朝廷の地方吸収劇が伝説化したのではないか?とする研究者もいます。なるほど但波・紀州・吉備・伊賀・近江・尾張・伊勢は本来海人族の勢力下であり、支配基盤を固める上で目の上の瘤だったことでしょう。
倭国の笠縫邑を出発した天照大神が最初に向かったのが但波乃吉佐宮でした。
但波とは、丹波の事です。 丹波国は、西暦七一三年に国の中心であった北五郡(熊野、竹野、丹波、与謝、伽佐)が分離され、新たに丹後
国となりました。これは筑紫が筑前・筑後、吉備が備前・備中・備後と分国されたのとは形が違い、丹波をそのまま残した上で丹波の中心部を丹後(タニハノミチノシリ)としたのですから、為政者に何らかの考えがあったのでしょう。 また、倭を出発した天照大神が最初に但波へ向かったことにも注目しなければなりません。近隣の諸国を差し置いても、真っ先に向かわなければならない理由が存在したと思われるからです。
但波乃吉佐宮は、丹後地方に在ったはずです。しかし、吉佐宮が一体何処だったのかが未だにはっきりしません。有力な比定地が複数存在するからです。
伝説の吉佐宮に比定される神社は、
・籠神社 ・皇大神社 ・竹野神社
の三ヶ所です。
|