〜 おゝしあまのさと 〜
 

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西国第二十九番霊場
 

 青葉山は、一つの山の東西に二つの峯がある。それぞれに名神が在り、青葉の神と名付けている。その東に祭る神は若狭彦神・若狭姫神の二座。その西に祭る神は笠津彦(うけつひこ)神・笠津姫(うけつひめ)神の二座である。これが若狭国と丹後国の境であり、笠津彦神・笠津姫神は丹波国造である海部直たちの祖先である。二峯とも松柏が多く、秋になっても色が変わらない。  〜丹後風土記残缺・志楽郷より〜

 京都府と福井県の二府県に跨ってそびえる青葉山(標高699m)は、古来より聖なる山として崇められてきました。この山は福井県高浜町から眺めれば、ふたつの峯が重なって秀麗な三角錐に見えます(別名・若狭冨士)が、京都府舞鶴市から眺めたならば、火山であった太古の姿そのままにふたつの峯を見る事が出来ます。

雲海に浮かぶ青葉山(京都府舞鶴市五老ヶ岳より撮影)

 古代より神々が鎮座し、修験場としても名を馳せたこの山の中腹に、西国第二十九番霊場・松尾寺(まつのをでら)は在ります。松尾寺は馬頭観世音菩薩を本尊とする全国でも大変珍しいお寺で、元明天皇勅願寺の格式を誇ります。

御由緒

 時に慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結ばれたのが、和同元年(七〇八年)と伝えられる。養老年間には、加賀国白山から泰澄大師が来山し、妙理大権現を山頂に祀った。これが、現在の奥の院である
 元永二年(一一一九年)には、鳥羽天皇、美福門院の行幸啓があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて繁栄した。当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院の念持仏であったといわれる。その後織田氏の兵火によって一山ことごとく灰燼に帰したが、天正九年(一五八一年)細川幽斉の手によって復興をみ、京極家の修築等を経て、享保十五年(一七三〇年)牧野英成によって、漸く今日の姿を整えるに至った。当寺は、西国第二十九番札所で、本尊馬頭観世音は、三十二霊場中唯一の観音像であり、農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通、更には競馬に因む信仰を広く集めている。

松尾寺案内より

松尾寺・独特の建築様式は宝形造と呼ばれる

馬頭観音の伝説

 一条天皇の御代、若狭国神野浦(現在の福井県大飯郡高浜町)の漁師に春日宗太夫なる者がいました。出漁中に嵐に遭遇して海に投げ出された宗太夫は、流木に掴まって何とか神野浦の海岸に戻る事ができました。するとどうでしょう。流木は馬に姿を変えて走り去って行きました。
 不思議に思った宗太夫が村人と共に馬蹄のあとを辿ったところ、青葉山の松尾寺にまで続いており、境内で宗太夫が掴まっていた流木が見つかりました。自分が松尾寺の本尊である馬頭観世音菩薩に助けられた事を悟った宗太夫は仏門に入り、流木に馬頭観世音を彫って感謝の祈りを続けたそうです。
 この奇譚は時の朝廷にまで聞こえ、松尾寺中興の礎となったと伝えられています。

本堂向かって左側に馬の銅像がある

海人の痕跡

 青葉山の西側の峯に祀られている笠津彦神・笠津姫神の二神が海部氏ゆかりの神である事は前述したとおりですが、東側の峯に祀られている若狭彦神・若狭姫神の二神についてはそれぞれ彦火火出見尊・豊玉姫になぞらえる説もあります。この事実は、青葉山が古代の海上交通にとって、大変重要な役割を果たしていた事を物語ります。
 平安末期の三井寺(滋賀県大津市)の僧、行尊・覚忠の巡礼記録には、松尾寺の願主について『海人二人』と記されているそうです。この記録は、青葉山と海人との関係を如実に物語るエピソードではないでしょうか?

余談ですが・・・・

 余談ですが、私の父はお彼岸には必ず松尾寺へ詣でます。国道27号線からひとたび松尾寺の参道に足を踏み入れたならば、先祖の御霊が山から降りてきて暖かく迎え入れてくれるそうです。先祖の御霊は泣いて喜んでくれるのだそうです。

 松尾寺のある青葉山は現役の聖域なのです。
 

西国第二十九番青葉山松尾寺御詠歌

そのかみは いくよへぬかん たよりをば ちとせもここに まつのをのてら
 

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